高辻藍は専業主婦。商社に勤務する夫の司郎、中学生の長女・春菜と国分寺に暮らしている。おだやかに幸福を食んできたかにみえる一家。しかし、不妊に悩んだ末、第三者の精子提供により長女を出産したことは、夫婦だけの秘密だった。「家族」という砂の城に、互いの理想をひとつずつ積み上げてきた夫と妻。だが、結婚二十二年目の夏、その城に思いもよらぬかたちで亀裂が入った…。
幸せに形があるとすれば、それはきっと、やわらかくてあたたかいものなのだろう。でもその「やわらかさ」にもたつきを覚え、「あたたかさ」にぬるさを感じるようになったとき幸せは形を失うのだろう。
本作で藍と司郎の夫婦という形は崩壊する。しかしその先には別々の幸せが待っている。その幸せもいつかは形を失うかもしれない。それでも藍と司郎が守っていた贖罪のような夫婦生活に比べればずいぶんと苦しさは異なることだろう。
夫婦という形を考えてみる。
経験則だけでいえば、夫婦は子供が生まれた瞬間から家族としての在り方にお互いの価値を変化させていく。夫は父に、妻は母に.(特にこの変化は顕著である)自らの立ち位置を変えていく。夫婦は永遠に恋人ではいられない。夫婦の契りを交わしてからは人生のパートナーとしてお互いの人生に関わりあっていかなければならない。毎日をともに過ごすことにより、お互いを知り、尊重し、妥協し、新たな生活の形を創り上げていく。恋は情熱であり、愛は忍耐であるといったのは遠藤周作だったが、それはとても的を射ている。
日本人は特に愛を重んじるがために配偶者に恋をしなくなる。
そこに子供が加わることにより夫婦は家族としての別の幸せの形を見出す場合がある。愛と司郎はここに大きな歪みがあった。すでに子供のいる僕にとって子供が作れない司郎の気持ちも、そこに絶望を覚える藍の気持ちも想像することしかできない。子供がほしいと強く願う夫婦はたくさんいる。さまざまな事情で子供を授かれない夫婦もたくさんいる。もし、自分が司郎であった場合、藍のような要求をされたら納得ができるだろうか。答えは否である。
司郎の単身赴任を機に夫婦は形を失っていく。夫は男として妻は女として、それぞれの新たな恋を育み人生の饗宴を迎える。そこに未来を求めたわけではなく、夫して妻としての役割に線を引き、ほぼ合意の上で離婚が決まる。夫婦はすでに夫婦として機能しなくなっていた。
機能しなくなった夫婦なんて日本中にいくらでもいる。それでも彼らは別れずにお互いの不満をこぼしながら人生を添い遂げていく。もちろん愛の中に恋を残しつつ、理想的な関係を保持し続ける夫婦だっている。
人生を豊かに過ごすためには恋をするべきだと思う。
それは夫婦間で少しずつ形を変えながら行えれば理想的だ。
本作はその真逆であるが、それぞれに幸せを見つけることができた。
夫婦という形、愛の中にある恋、情熱と忍耐の中で男と女は何を選び取っていくのだろう。
既婚者にお勧めの一冊である。
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