22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。そして勢いをひとつまみもゆるめることなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森を気の毒な一群の虎ごと熱で焼きつくし、ペルシャの砂漠の砂嵐となってどこかのエキゾチックな城塞都市をまるごとひとつ砂に埋もれさせてしまった。みごとに記念碑的な恋だった。恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。更につけ加えるなら、女性だった。それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった評価:★★★★☆
再読シリーズその4。2001年の文庫本初版を買っているので読んだのは9年ぶりとなる。
昨年の『1Q84』で再び話題に加速のついた村上春樹の比較的評価されていない分類に入る作品。翌年(2002年)の『海辺のカフカ』が話題になっただけに、より存在感は薄いといえる。しかしながら個人的には好きな作品である。村上春樹作品の多くに登場する異世界の描写が極めて少なく、主人公である「ぼく」によって物語は紡がれていく。
主人公は「ぼく」であるが、物語の中心になるのは「すみれ」である。そしてすみれが恋をする「ミュウ」。3人はそれぞれに喪失していく。喪失されたものが何なのかはわからないし、取り戻せない。それは私たちの人生においてもそうである。ただ、その哀しみがあまりに深すぎると人はもう単調に生きていくことしかできないのだろう。生きる意味を見失っても死を選ぶ意志さえも見つけられないほどに。
この小説の中で最も忘れられないシーンがある。それは「僕」が教え子であり不倫相手の息子でもある「にんじん」に語りかける場面である。
「ぼくが今なにをいちばんやりたいか、わかるかい」? それはね、ピラミッドみたいな高いところに登ることだ。できるだけ高いところがいい。できるだけまわりの開けたところがいい。そこのてっぺんに立って、世界をぐるりと見渡し、どんな景色が見えるのか、今となってはそこからいったいなにがうしなわれてしまったか、自分の目でたしかめてみたいんだ。いや、どうだろう。わからない。本当はそんなもの、みたくないのかもしれない。本当はぼくはもうなにもみたくないのかもしれない」
(略)
「ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな川の河口に立って、たくさんの水がうみにながれこんでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。 (略) たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じりあっていくのを見ているのが、どうしてそんなにさびしいのか、ぼくにはよくわからない。でも本当にそうなんだ。君も一度見てみるといいよ」
僕はこの15章が本作のクライマックスだと感じている。16章で「ぼく」は物語の終わりを感じさせるようにものごとの経過を語る。最後にもう一度すみれが現れるのだが、果たしてそれをどう受け取るかは読者に委ねられている。
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