医師である著者は、末期ガンの患者たちの闘病と死に立ち合って思った。一般の病院は、人が死んでゆくにふさわしい所だろうか。医療者にまかせるのではなく、自分自身の意思と選択で決める自分の死を迎えるには、どうしたらいいか…。これは患者と理解し合い、その人の魂に聴診器をあてた医師の厳粛な記録。
評価:★★★★★
哲学少年であった僕は二十歳を過ぎる頃まで本当に死の在り方について日々真剣に考えていた。割と幼い頃から親族の死に立ち会ってきたので、自らの最期はどうあるべきかということはまさに字のごとく死活問題だった。その時期に少し大きな病気になったこともあり、死生観と宗教観については友人らと比べても少し異常なほど真剣に考えていた。
その頃の思いを思い出した。
自らの人生の幕の降ろし方について、納得のいかない結果になった方々のエピソードが現実であることを思い知らされた。そうなのだ。自らの病気の真実を語られないのは患者のためではなく、残される家族のためなのだ。当の本人は「知らないまま」病魔に体を蝕まれ人生を終えていく。真実に耐えられない人もいるだろう、結果的に知らないことが良かった場合もあるだろう。しかし、僕もまた思う。自らの死の準備のために必要な時間が限られているのなら、どうかその時間を教えて欲しい、と。
最も胸にせまるものがあったのが「息子へ」。子どもが成人する前に逝かなければ無念さはいかほどなものだろう。これほど立派な最期を遂げることができれば家族は間違いなく父を誇りに思うだろう。もし自分がその立場にあったとき、同じように家族を慈しみ、その後の人生に希望を灯せることができるだろうか。もちろんその立場にならなければ分からないことではあるけれど、こんな最期を迎えることができればきっと人生は幸せであったと感じられるだろう。
僕もいつか死ぬ。その時が苦しくなく、安らかで優しさに溢れていることを心から願う。
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