数学だけが生きがいだった男の純愛ミステリ
天才数学者でありながらさえない高校教師に甘んじる石神は愛した女を守るため完全犯罪を目論む。湯川は果たして真実に迫れるか
評価:評価:★★★★★
直木賞受賞作。待望の文庫化。
TVドラマ『ガリレオ』シリーズの映画版として現在公開中である。
いわゆる東野節であり、ミステリとしては一級品である。
特筆すべきは天才数学者としての実力を持ちながら
その能力を「本来なすべき仕事にむけられていない」石神の存在であろう。
そして前二作より複雑な人間味を見せる湯川。
僕は理系の人間を尊敬している。
論理的思考から創造されるものは、いつも世界を驚かせる。
何も研究や開発だけのことを言っているわけではない。
ちょっとした改善や物事の捉え方も理系思考には到底敵わない。
事実、僕の大学の恩師は医学部出身であり、
その論理的かつ創造的な思考に僕は世界というものを教えていただいた。
閑話休題。
この小説は愛の物語だと呼ぶ声もある。
それは石神から靖子への愛なのか、湯川から石神への友情としての愛なのか
はたまた数学と言うものに対する石神の愛なのか、それらは明確ではない。
もちろん、壮絶なクライマックスを見ると石神が身を捧げ、人生を賭して
守ろうとした靖子への思いこそが純愛だと見るのが普通だろう。
Amazonなどの書評を見る限り、これには少し否定的な意見もある。
石神ほどの男が、人生を棒に振ってまで靖子らを守ることで
靖子らが本当に幸せになれないと言うことに気がつかないはずがない、
というのが否定派の多数意見である。
残念ながら僕はこの解釈には全く賛同できない。
劇中のあらゆる箇所で石神の人生観や考え方が描かれているが
彼はこれまでの人生において人と深く関わった痕跡がない。
強いて言うなれば、それは湯川であったかもしれない。
しかし、それとて親密なものではなかった。
相手の気持ちをおもんばかるという経験が極端に浅いのだ。
だからこそ純真な気持ちで靖子らに献身することができたのだ。
それは人間との関わりあいという意味で石神が無知であったということに他ならない。
湯川はそこに苦しんだ。
真っ直ぐに愛せる(この対象は靖子だけではなく数学にも通ずる)個性が
過った道に進んでしまったこと。
「この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ」
物語の真の山場はこの場面である。
友人だからこそ、湯川は石神に対峙せねばならなかった。
それは相手の気持ちを慮ることができる湯川だったから
石神にそれを伝えることができたのだ。そして靖子にも。
原作のイメージを持ったまま映画に行くことは辞めた方がいい。
ドラマの続編として映画を観るのであればお薦めかもしれない。
この作品は小説として楽しむべきである。
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