T・ジョイ 大泉のレイトショーで『GOEMON』を観た。
紀里谷監督の新作である。
できるだけ落ち着いて観る必要があった。
紀里谷映画の特長であるCGを駆使した映像美は本作でも健在である。この手法によって『CASSHERN』では酷評を受けた感もあるが、ここは単に技術的な部分として捉えておくべきだと考える。なぜなら心を動かされるのは映像の美しさではなく、各登場人物の葛藤であり、志であり、決心であるからである。生き抜く、という意味に向かい合わざるを得ない作品なのである。それこそが紀里谷映画の真骨頂であると考えている。
天下の大泥棒、石川五右衛門(江口洋介)が盗んだ西洋の箱にはある秘密が隠されていた。劇中、それは「パンドラの箱」になぞらえられる。パンドラの箱からは犯罪や疫病などの数々の不幸が飛び出すが、最後に一つだけ残されたものがある。それは希望とも絶望とも言われている。箱に残されたものを大切にしていくことができた、と解釈すれば「希望」であり、残されたものを知らずに済んだという解釈をすれば「絶望」かもしれない。しかし、本作では前者の解釈をするべきだろう。
五右衛門のように自由に生きていくと、必ず誰かが代償を払うことになる。見知らぬ誰かの悲しみを引きこしたことを知り、大切な誰かを傷つけてしまい、自らの正義が必ずしも正しくはないことを突きつけられる五右衛門。最初の大きなクライマックスはやはり霧隠才蔵の最期であろう。才蔵の生き方は現代社会に生きる多くの男たちに重なる。自由に生きられず、自由を求めた男は、あまりにも大きすぎる犠牲を伴って壮絶な死を迎える。
この映画の本格的なメッセージはここからが本場であるといっても良い。
五右衛門は復讐を良しとせずも、復讐によって暴徒と化し、秀吉を斬る。関が原の戦いにおいても、たった一人で西軍を鎮圧し三成を斬る。歴史的観点や物語の流れを考えると荒唐無稽という趣もあるが、この映画でそこを問題していては作品に込められたメッセージを汲み取ることができない。半蔵が叫ぶ「その幸せのために戦っている」と五右衛門が叫ぶ「そんな台詞は聞き飽きた」が象徴的である。誰もが自分が信じた道を懸命に走っているのだ。例え、目指すべきゴールが同じでも皆が手を取り合うことはない。それこそが人間のあまりにも愚かで、あまりにも崇高な、本質なのかも知れない。
『CASSHERN』で感じた衝撃に似たものをやはり『GOEMON』でも感じた。自分は生き抜くことに真剣であっただろうか。日常の些細な幸せを守るために闘えているのだろうか。そのために誰かを傷つけてはいないだろうか。どこに向かおうとしているのか、何をなそうとしているのか、なぜ泣いているのか、自分はこんなにも空っぽだっただろうか、そんな思いが強く強く胸に響いた。
世間がどう評価するかは知らないが、『GOEMON』は『CASSHERN』から続くメッセージを色濃く反映している。映像美はもはやオマケだといってもいい。紀里谷和明の恐るべき才能に嫉妬さえ感じる。
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GOEMON公式サイト
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