大叔母はその名を「百合」という。
大正五年の生まれにしてはハイカラな名前だったのでは、と常々感じていた。
この機会に改めて調べてみると種子島には白く美しいテッポウユリが多く自生していたのだ。
純潔と威厳という花言葉を持つこの花のように、大叔母は多くの方に愛され、弔われた。
祖母の姉である大叔母は当然のごとく、僕が生まれた頃からおばあちゃんだった。
当時は千里中央から程近い池田市に友人と一緒に住んでいた。
生涯独身であり、自身の家族がなかったためか
僕は幼い頃にとても可愛がってもらった記憶がある。
僕が中学生になる頃、余生は生まれ育った故郷でで過ごしたい、と種子島へ移り住んだ。
その頃には同居していた友人は既に亡くなっており
甥などの親族が近い地元を、最期の地として選んだのかもしれない。
なので、僕の中での大叔母の記憶の大半は幼少時代となる。
もちろん大人になってからも何度も会っているし
話もしているのだが、思い起こせば起こすほど、
自分が小学生の頃、正月やお盆に池田に行った記憶が蘇る。
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午前7:30鹿児島本港発の高速艇トッピーに乗って種子島へ向かう。
およそ90分の運行を経て、種子島へ到着。
港近くのホテルに前日から泊まっていた母と合流。ここで僕と父は喪服に着替える。
タクシーでベルホールあじさい園へ。
やはり先日から来ていた祖母と対面。思ったより元気そうだ。
午前11時、定刻より葬儀が行われる。
大叔母は交流が広く、多くの方が参列していただいた。
お別れに見たその顔は、やはり僕が知っている大叔母の顔であり
優しく、健やかであった。
葬儀独特の忙しさに見舞われ、ようやく一息ついたのは夕方頃。
大叔母が住んでいた部屋へ行く。
見覚えのある家具、子どもの頃自分が贈った旅行の土産品、家の匂い、
それらがゆっくりと自分の記憶の中に沁みこんでいく。
遺された人は故人によって多くのことを学ぶ。
ここ数年、僕は本当に多くの近しい人を見送った。
その都度、寂寥を感じ自らに問う。
散る桜 残る桜も 散る桜
初七日法要後、この良寛の辞世の句を引用したお話を頂いた。
人生の長さは実はそんなに変わらない。
咲き誇れる一瞬を精一杯生きつづける事が
故人に習い、背を正すことなのだ。
幼少の頃の記憶は祖母よりも大叔母の方が多い。
その人柄や生き方に強く影響を受けた部分が確かにあった。
凛とした強さを、包み込む優しさを、僕はしっかりと継承していく。
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