新聞を読んで涙を流すことがある。
凄惨な事件に心を痛め、そこから強いメッセージを感じたときだ。
自分の過去の日記を紐解いてみると、
2006年11月14日の讀賣新聞「編集手帳」に触れてこう書いている。
本日の讀賣新聞朝刊「編集手帳」に一遍の詩が紹介されていた。 凹んだ分だけ器は大きくなる。大きなものになるために 今は少しだけ凹んでいてもいいではないか。 そんな内容だった。いじめられっこへのメッセージである。 内容はこう続く。大きくなった器が涙でしか満たされないのなら、 凹みすぎて器が割れてしまうのなら、 それは誰かが支えなければならないと。 (略) 僕の声が誰かに届くとは思っていない。 でも、もし、誰かが、偶然によってこの日記を読んだとしたら どうか一人で悩まずに隣の人に声をかけてください。 みんながみんなでなくていい。 隣の人にだけ「元気にしているかい?」と声を掛け合おう。 たったそれだけのことで救われる人がいるのだから。
閑話休題
同じく讀賣新聞。
『先生 6月8日 付属池田小事件から7年』という連載がものすごく胸に突き刺さる。
(<上>はYOMIURI ONLINEにてすでに公開中)
昨日、<中>が朝刊に掲載された。
その内容にはこみあげるものがあり、自然と涙があふれた。
大人も苦しんでいる。あの場にいた先生たちは壮絶な思いを抱えている。
この記事はただ、その事実をありのままに伝えているに過ぎない。
しかし、そこにはとんでもなく強いメッセージが込められている。
読み進めるたびに鼓動が大きくなるのを感じた。
あまりにリアルであることが、どうしようもなく胸を締め付ける。
生き抜く、ということはいつも教えられてばかりだ。
自分の人生は自分だけのものではないのだ。
社会との関わりについて、自らの恵まれた環境について
もっともっと感謝し、もっともっと真剣に向き合いたい。
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